二十歳の頃(ころ)の十五夜に、餅(もち)つく、つかねぇでじぃさまに大怒りされた。いっつもは餅つくんだけど、おっかぁもいないし、まぁボタ餅で間に合わせるかと思っていたら、じぃさま怒るのなんの。
「べらぼう。十五夜に餅つかねっちゃあるもんでねぇ。人間が食いてぇ食いたくねぇの都合なんか、かまってらんにんだ。人間が食いてぇからじゃねぇ。上げ申すもんだ。下げ申してから人間は食うもんだ。」って。あれは効いた。それが染みついてるから山のもんでも何でも、頂きもの。頂くものだから、よけいなものや無駄なものは、頂いちゃならないと思うね。
餅騒ぎのあと、じぃさまに連れられて山に行くようになった。山を知ると、自分はこんなに山が好きだったのかって。ストレスの多い里中と違って、唯一の拠り所になった。
尾根に登ると下界が見えるんだよ。人間界を見下した感覚は、カルチャーショックだった。この山は神の世界。男神さまのね。
人間は野放図になり過ぎたよね。自然の中にゴミなんてないよ。みんな次の世界を育んでる。いのちを支え合ってる。だから大切に大事にして来たんだもの。
おてんと様が神様。
自然はこわいもんで当たり前。支配なんてできっこない。なんで、なんて考えることはないんだよね。人間には分からないことが山ほどあるもの。住みいい暮らしを追いすぎて、止められなくなった世界がいかに悲惨か、山に行くとよく分かる。
自然のサイクルに沿っていなくても生活はできるし、うちのばぁさまのようにいっつも暦をめくって、今日は味噌出しちゃなんねぇ、あれしちゃいけないっていうようなタブーも用が無くなってきてる。でも、山の天気は予報じゃ出てこないんだよ。人間が証明したり分析したりすることなんて、これっぽっちのもんだよ。
山に行くとねぇ、血が騒ぐんだ。縄文の血かなぁ。
衣食住みんなひとりでまかなえるよう、まず生活の基本を仕込まれた大倉(集落名)のはえぬきだい!縄文人の生き残りだいって思ってる。
争うひまなんてないほど、生きることに精いっぱいだった頃は、今日の意味やいのちの意味をちゃんと実感してたんだと思うよ。
最近ではきち.んと勉強して、このことを伝えたいと思うようになった。
(奥会津書房編集部)