この明治八年は最初の町村合併の行われた年で、現在の大字名の村が誕生した。その時に同じ郡内に二つの大石村があって紛らわしいと、現会津本郷町の大石村はそのままの村名に、片やこの大石村は読みが「オオシ」だったため「大志」に改められてしまった。
さて元の大石の村名の通り、東側の山腹よりふもとの田畑にかけて大石・巨岩が実に多いところである。だが、古来より村人たちは大石・巨岩を邪魔者扱いにして嘆くどころか、神や仏の宿られる依代(よりしろ)として崇め、村の豊穣や安泰を祈るよりどころにしていた。
山腹に建つ子安観音堂(こやすかんのんどう)への参道にある数々の大石には、山号の「萬霊山」(ばんれいざん)の文字をはじめ宝珠や梵字(ぼんじ)が数多く刻まれ、参拝の男女はこれらの前を通り過ぎる度に襟を正して足を運んいる。
子安観音堂より掛橋沢に沿って奥に入った乙越(おつこし)地内には、縦横ともに十メートルを越す巨岩があり、村人は「大黒岩」(だいこくいわ)と呼んでいる。平らな前面には俵の上に安座される大黒天が線刻されている。長い年月を経たため線刻の摩耗も激しく、一見して大黒天とは判じ難いが、線をたどればまさに大黒天が浮かび上がってくる。
村の古老の話では対岸に同様の巨岩があり、昔から恵比須岩と呼んでいたが、百八十年ほど昔の文政の大地震で、谷底に転落の憂き目に遭ったという。
恵比須・大黒天は庶民にとって多くの神様の中でも最も身近な神様であろう。この二神は庶民より一足先に年を取られるらしく、文化年間に書き上げられた『金山谷風俗帳』には、「九日=大黒様歳(とし)を取り・二股大根(ふたまただいこん)を供え小豆飯を炊いて祝い、十五日=恵比須様の年取り・米飯にて魚類を供えて祝い候。」と書かれている。
さらに大石村では年に何回かは恵比須・大黒天の依代の巨岩の下に集い、村人の平安と五穀の豊穣、さらには商売の繁盛を祈る祭祀(さいし)の場だったと伝えられ、今なお神仏の聖地として信仰を深めている。
【写真・文 渡邊 良三】
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