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朝日新聞福島版連載のコラムです。(H12年10月12日)

奥会津に棲む神々

野老沢相撲甚句   60代も若衆 力強く勝負

保存会の若衆のそろい踏み
=河沼郡柳津町で

 河沼郡柳津町竜藏庵(りゅうぞうあん)の船木家文書「飯谷神社縁起並びに船木宿祢之事(ふなきすくねのこと)」には、

「・・彼兎忽然(かのうさぎこつぜん)として白髪の老翁と化し、告げて曰(いわ)く 吾(われ)はもと常磐幾命(ときわぎのみこと)・・・・汝神祠(なんじしんし)を此(こ)の地に建てて崇祀(すうし)すべし・・・」という一節がある。

 白髪の老翁と化した兎を追いかけていたのは、船木又太郎光景(みつかげ)で、葦名盛詮(あしなもりあき)に仕えた弓の名人であったが、常磐幾命が彼に降臨して祠を建てるよう告げたことから、飯谷神社の本願となった。

 常磐幾命とは、蔵王権現の俗称で、天台修験衆のご本尊である。

 以来、飯谷神社は本山の飯豊山に属し、代々船木家が神官をつとめた。しかし、慶長の大洪水と山崩れによって維持することが困難となり、仏像や礼拝事は奉行の北田氏にうつされた。

 その後も常磐幾命への信仰は引き継がれ、領主の加持祈祷(かじきとう)はもとより、村の安全・五穀豊穣(ごこくほうじょう)・病魔退散に護摩を焚いた。庶民の信奉には目を見はるものがあったという。

 飯谷神社は集落の信仰の中心であった、

 江戸時代の中頃、氏子の善太夫兄弟が、祈願成就を祝って境内で相撲をとった故事にならい、春秋の祭日には、奉納相撲が催されるようになった。

 戦争中は一時途絶えていたが、昭和六十三年、野老沢(ところざわ)集落全戸が支える保存会が生まれ、現在も継承されている。この時に歌われる相撲甚句は伝統芸能として伝えられてきた。

相撲取りとは大きな鳥だよ

ハァードッコイ、ドッコイ、ドッコイサー  

四本柱の ヨホホイ エー中に住むよ

ハァードッコイ、ドッコイ、ドッコイサー

 白井正一会長を中心に集まった四十代から六十代の男性十二、三名が、九月二十三日・飯谷山の山登りの日に、野老沢公民館で力強い勝負を披露する。

 代々伝えられてきた化粧まわしのほかに、町の活性化事業の補助により、希望者には新しい化粧まわしが贈られた。

 六十代でもまだまだ若衆。天台修験の厳しさと素朴な伝統を織り込んだ化粧まわしが、年に一度のそろい踏みを鮮やかに演出する。


【文・小柴 七治 写真・白井 正一】

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