いまから約五千六百年前に噴火した沼沢火山の陥没火口湖といわれる「沼沢湖」。その裏側というか西側の内輪山と外輪山の間に開けているのが「太郎布高原(たらぶこうげん)」である。
木冷沢(もくれいざわ)はこの太郎布高原のわき水と雨水を集める「堤」に端を発し、高原のほぼ中央を縦断して只見川へ注ぐ。その流れはシラスという火山灰の蓄積土砂を崩しながら、長い年月をかけてV字形の特異な地形を刻んできた。谷の深さは数十メートルにも及び、その幅は広いところは二百メートルもあろうか。草木で覆われた谷底を水が流れている沢は、木冷ならぬ木霊が棲んでいるかのような静寂に包まれている。
かつて木冷沢の滝壺には大蛇が棲んでいて、村の娘と情を通じたという。生まれた子が蛇の姿をしていたことに驚き悲しんだ娘が身を投げたのも、この木冷沢だったといわれている。川岸の大岩には、これをあわれんで石のほこらが建てられていたそうだが、一九一三年の洪水で流れ去ってしまった。ほこらはなくなったが、清冽(せいれつ)な水音の響きからは、悲しみの振動が伝わってくる。ひんやりと木をも冷やす静寂の中を縫うような渓流は、さながら蛇の化身のようだ。
木冷沢の人の気配が途絶えた沢に立つと、蛇の化身の美しい若衆に魅せられた村娘のあこがれと悲しみが肌を打つ。
また江戸時代、用水の不便に悩みつづけた大石、坂下、宮崎の三ヶ村にこの木冷沢の水を導水する試みがなされたのは延宝年間(三百二十年前)と語り伝えられている。以来、幾多の苦難変難を経て、足掛け十年を費やした木冷遂道(ずいどう)が完成、その後九四年に完成した改修工事により、三地区のかんがい・生活用水として、計り知れない恩恵をもたらしている。
一八二〇年(文政三年)の集中豪雨には復旧不可能なまでの大被害を受け、その翌年には大石組大地震という大変難に遭遇し、神をまつって大掛かりなご祈とうを行ったと記録にあるが、すべて人力のこの時代に、これだけの難工事を完成させた背景には、まさに神々の力があったといえよう。
見えざるものの力が脈脈とした振動を発する、霊気に満ちた沢である。
【文・若林 一郎 写真・奥会津書房】
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