天狗(てんぐ)様、もしくはオテンゴサマの不思議な音を聴いたという話は、奥会津でも最近聞かれなくなった。それでも古老たちは、丸めていた背中をいっとき伸ばして、かつて聴いた天狗様が木を切る音や、一本の木も倒れていなかった現場の静まり返った空気のことを、今も不思議そうにひとみを漂わせながら、いきいきと語る。
そこは博士山だったり、志津倉山だったり、里近い山だったりするが、山に棲む見えざるものの存在は今も人々の暮らしを律し、日々をつなぐ精神の依り拠となっている。山に依存して生きてきた奥会津では、山の神様に一年の無事と恵みを感謝して祈願する「山入り」はほぼ共通した行事で、各地域でそれぞれに伝承されている。
何百年も生きてきた古木や、巨石もしかり。
まつり木として人々の祈りを受け止める、ブナや桂の古木。
水神様がまつられた田んぼの中の大岩。
人間の経験や知恵がいかに未熟であるかを知っている人々は、自然界のすべてに宿る深い英知と強大な力を、「山の神」と呼び、「水神様」と畏(おそ)れ、「お天道(てんとう)様」と敬いながら、人間が踏み込んではならない領域を穏やかに示してくれている。
一方で、サイノカミの火や雛(ひな)を流す川のように、人間とカミが一体となる壮大な仕掛けには、再生を促す呪力(じゅりょく)を持つものが必ず鮮やかに登場する。
見えないけれども「在る」世界をしっている人々は、心の置き場をゆだねたその瞬間に、深く調和した響きの中で真の安定を取り戻すのではないだろうか。
自然の営みの諸相に死と再生のダイナミズムを見つづけてきた人々は、自然を単に資源ととらえることはしない。自然に寄り添い、敬い、畏れることで学んだ人間のありようと、「資源」を「利用」する、という歯止めの効かない開発を象徴する言葉はなじまないのだ。
神々が棲むにふさわしい暗がりは少なくなり、祈らずとも防災が約束されている今、見えざるものは一層見えにくくなった。
それでもなお、自然の中に神々の分身を認め、共に暮らす習俗が消えずに息づいているのは何故なのだろうか。
あやつるる事の出来ない自然の営みの前で、連綿と引き継がれてきたものは何だったのか。
【文 奥会津書房編集部 写真 平田春男】
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