奥会津の生活は今も農林業に依存している。自給自足の農耕であっても、その収穫は一年の暮らしを左右する。
恵みと災厄は表裏一体。
かつて苛酷な労働の中で節々に訪れるハレの日は、現在よりもはるかに純度の高いときめきを含んでいたはずだ。豊穣を祈りながらしばしの休息を待ちわびて日々を繋ぐとき、ハレの日の山の神や鳴神は一層神聖さを増したことだろう。
生活様式が変わり、山が削られかつ保全され、川は治水されても、自然の大元は変わらず厳然と在る。
ゆるやかになった節目であっても、人々はカミとの結界を意識せずにはいられない。何故なら、連綿と引き継がれきた血脈が、神々を無視することを畏れるからだ。
安堵を得たもの何だったのか。
再生を約束してくれたものが何だったのか。
昔からの形をなぞることで甦るカミの実感が、表現のしようがない魂の充実をもたらしてくれるからではないだろうか。その時、人間は確かに自然の一部であり、カミと呼応することのできるものを内在させた存在であるという、いっときの錯覚に至れるのだ。
たとえ一瞬でも、見えざるものとの交流から得た敬虔な思いは、傲慢になりすぎた人間の、本来の姿を照らしてくれる。
奥会津ではこれから、予祝・新年の行事が様々に展開される。
山から松を迎え、サイノカミで厄をおとし、愛宕様の火を迎え入れる。 人間本来の調和に至る道を、おだやかに指し示す深い精神性こそが、奥会津という地域が担うべき使命なのではないだろうか。
自然を畏れ敬うことから育まれた深い精神性を失うとき、地域のみならず、人間は人間たり得ない。
神々との暮らしは、次世代に引き継ぐべき魂の伝承である。(了)
【文 奥会津書房編集部 写真 平田春男】
奥会津に棲む神々は、石仏にも姿をかえて、目に見えない世界の在り処を伝える。来年一月より「奥会津石仏巡礼」連載予定。
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