天地万物自ら然り
あるがままを、あるがままに
余すところなく見せてくれる
自然の姿に、
時として私たち人間は、
予想もしない驚きや
感動を覚えるものである。
里山にしても、原始の深山にしても、動植物の自然の営みにはドラマがある。心のはからいを捨てて自然の中に在る時、自然は絶妙の演出でドラマを見せてくれる。
しかし、私たちにとって一刻の憧憬や感傷、もしくは「鑑賞」の対象として自然がその姿をあからさまにしているわけではないだろう。
自然が本来持っている「自然時間」に私たちが合わせた時、実は見ていて、見えない世界を暗示してくれていることに気づく。
例えば、秋のけんらんたる彩りに息を呑んで立ち尽くす時、自然を外界として見ているつもりが、その実、一木一草の彩りという一瞬の鏡に映った自らの心の在りようを見せられているのだと知り、ハッとすることがある。
有為、無為、美醜などのさまざまな価値観、すなわち心の状態によって、いかようにも見え方、感じ方が違ってくる。さらに、自然と人間の調和という観点からすれば、見るものと見られるものという主客相対ではなく、意識が同調してこそ、自然と人間は本来の関係、有るべき姿に立ち還ることができるのではないだろうか。
かつて、「神話」は生きていた。
人間もまた、自然の一部であるという当たり前の認識が、人間の中に確かに存在した時代 かがあった。
しかし、いつしか自然との一体の環が断ち切られ、自然を凌駕し、対立に克とうとする試みがなされ始めてから、神話につながる伝統は道を失い、暗闇を放浪しはじめたのではなかったか。
今私たちが、「自然の声」を真摯に聞くことができたら、もしかしたら本来の「万世の場」を振り返る機会が与えられるかもしれない。
破壊されようと、保護されようと、それでも自然は私たちにありのままの姿をさらけ出してくれている。
太古からのゆるやかな時の流れの中に、山は少しづつその姿を変え、水もまたその姿を変え、数え切れない人間のそれぞれの生をも、自然は大きな懐の中に刻み込んできた。
奥会津の山すそでは、六千万年前の第三間氷河期の記憶を抱えた河岸段丘の地面に、人々は営々として日々の暮らしをつむいで来た。噴火跡の火口に蓄積した高層湿原の、その周囲に寄り添いながら人々は生きてきた。
連綿と大地に刻まれてきた「時の恩恵」を、私たちは決して忘れてはならないと思う。
奥会津には、いわゆる「絶景」は少ない。
地味だからこそ人の暮らしが続いてきたとも言える。
容易に人をよせつけない圧倒的な大自然は少なく、人と自然は「親和性」を共有することが出来た。
それだけに、自然の中で人間がどう生きるべきかの智恵が、深く内在蓄積されているはずである。その智恵をもう一度呼び覚ましてみたい。掘り起こしてみたい。
かつての「神話」が復活することは、もはや無理だろう。しかし、畏敬すべきものへ真摯に向き合う心は、こうした未来に向けての「新しい神話」を創り出すきっかけになるかも知れない。その礎になるかも知れない。
足許にある奥会津の自然は、耳を澄ますと、太古から変わらずに静かな慈しみの声を発し続けている。