会津の四季は美しい。
この美しく豊かな土地に、どれほど多くの人々が魅せられてきたことだろうか。
一方、会津はその折々の権力者にとっても重要な土地であったことを、歴史は語ってくれる。
古代より、中央の権力はこの国を足がかりとして北へ勢力をのばした。その後、徳一に始まる古代仏教の会津支配。鎌倉幕府の重鎮・三浦一族の流れを汲む佐原。中世から戦国の世まで会津に君臨した芦名。西国の大大名の移封。徳川の親藩として松平家が幕末まで担った役割も、北への要として重要な土地故であった。
私は料理に関わりながらこの土地を見続けてきた。会津に生まれ、ここに生きてきた人々は、いったい何をどのように食しながらいのちを継承してきたのだろうか?この土地に住む者として、興味と関心は尽きることがない。
また、会津の博物館や歴史館などに並ぶ陶器や漆器のうつわには、かつてこの中には何が盛られたのだろうかと想像を掻き立たせるものがある。
20年前になるが、東京の出版社の依頼で、江戸時代の料理の再現をしたことがあった。昭和60年には、徳川幕府の巡見使が会津を訪れた際に、一行をもてなした天保9年の料理献立文書を見つけ、これを復元する機会に恵まれた。
その頃から私の手元には数多くの資料が集まりはじめていた。資料の多くは江戸時代のもので、それも文化・文政の江戸中期以後の古文書、古書の類である。それらを読み説いて行くうちに、歴史家や郷土史研究の人々が見落としていることや、別の視点からの歴史が見えるようになっても来ていた。これらに基づく研究を、福島民友新聞に50回連載させていただいたが、当時35歳と若輩だっただけに解釈の誤りや勘違いの点も多く、いずれ書き直したいと長い間願っていた。
まとめておきたいと強く思うに至ったのには別の理由もある。これまでのフィールドワークによる研究調査が、もしかしたら今後の会津にとって、何がしかの役に立てるのではないかと考えたからである。
今、会津の経済はバブル崩壊以来低迷を続けている。特に伝統産業である漆器、酒造業が苦しんでいる。このことは私自身の苦しみであり痛みでもある。
思えば柳津から会津若松へ店を移転して以来15年、会津の人々は、どこの馬の骨とも分からぬ人間を温かく迎え、見守ってくれた。心の中で感謝するばかりでなく、私が実際に奉仕できることは何かと考え続けていたが、数年前から福島県より依頼されて、地域興しの手伝いをさせていただくことになった。それぞれの現場に即応する手がかりのひとつとして、今までの研究調査を活用していただけたら幸いである。
食の分野における会津の歴史や文化を振り返ることで、本来の有るべき姿を掘り起こし、会津の伝統産業の新たな展開が果たされることを願ってやまない。(続)
鈴木 真也
文責 奥会津書房
※「いのちの継承」は、会津の食をとおして歴史・文化を掘り起こします。
是非ご意見をおよせください。(奥会津書房) |