外国人の目に会津はどのように映ったのだろうか。様々な資料を探してみた。
明治41年、イギリスの女性探検家イサベラバード女史が下僕を連れながら馬に乗り日光から会津に入る。あまり快適なたびではなかったようであるが彼女は冷静に会津の農村の様子を書き残している。(興味のある方は平凡社の東洋文庫から『日本奥地紀行』をおすすめしたい)
彼女が見た会津の日光街道の村々は、江戸時代の会津と本質的にあまり変わっていなかったであろうし、維新後の混乱ということを考慮にいれてもおおよその想像がつきそうである。食事に関しても同じようなことが言えるが、当時は相当にひどかったようだ。日光街道の足場の悪い山道を馬に乗り、山王峠を越えて会津の川島本陣に投宿している。
食事に関しては、こうぼやいている。
「川島の本陣(田島)では米も無ければ醤油もなく、私が食べられたのは、胡瓜と黒豆の煮たものだけであった。宿の部屋は汚く、暗く、やかましく、下水の悪臭が漂い、胸がムカムカした。不幸にも宿の部屋はそういうものが多かった」
翌日、下郷の大内宿に泊まりこう書き残している。
「女の人たちは、畑に出て働く時の外は一年のうち、五ヶ月間を朝から晩まで炭火で暖を取りながら火鉢にかがみ込み、果てしない料理の仕事を続ける。農民の多くの食事は生魚か、半分塩の生魚と野菜と漬物である」
これだけでは残念ながらどのようなものなのか想像しにくい。
また、食事の様子を見ても呆れている。
「人々はみな食物をものすごい速さで飲み込む。まるでできるだけ早い時間で食事をかたづけるのが人生の目的であるかのようである。」
やがて彼女は会津盆地に入り、足場の悪い田んぼのあぜ道のようなところを馬に乗り泥濘にはまったりしながらさんざんな思いをして坂下にいたる。坂下では大変な騒ぎが起きていた。外国人が来るという噂が町中に広がり、近郷近在からとんでもない数のひとが押しかけて大騒ぎとなり、宿の周辺は見物の人でまるで祭り見物のような騒ぎになってしまった。挙句の果てに一目見ようと宿の前の屋根にまでよじ登り、屋根が抜けてしまい、けが人が出る始末である。
翌日、西会津の宿の食事については出された食材に記述が及んでいる。
車峠の茶屋で、彼女が目にしたものについてはさらに詳しい。
「六枚の大きな茶色の皿に売り物の食品がもられている、黒くどろどろした貝類の佃煮、串刺しの干した鱒、なまこの佃煮、根菜類の味噌和え、緑色をした海苔のせんべい、いずれも味の悪い不快な食物である」
彼女は道中食事では本当に苦労したらしく、米の飯すらなかなかありつけなかったようだ。挙句の果てに食料用に買い込んだ鶏を下僕の不注意から逃がしてしまったと怒りぼやいている。当時の会津はイギリス婦人にはあまりよい印象でなかったことだけは確かである。 |