初夏の頃、噎せ返るような新緑の中を私の故郷周辺の三島町や西会津を歩くと、目の覚めるような鮮やかな緑の中に、白い山梨の花が見られる。
江戸時代、会津の城下では、庭をもっていた武士たちは実の成るものを競うように植えた。雪深い会津では彼岸も過ぎて花時になると、梅や桜、洲桃、山梨の花が上級武士たちの庭でいっせいに花開いたといわれている。
そんな上級武士たちの屋敷を、人々は憧れを込めて梅屋敷とよんだ。
時は戦国、芦名の時代。天正十二年の十月、十八代の領主芦名盛隆が家臣の反乱に遭い殺害される。会津の領内は不安定で、この四ヶ月前にも、家臣の反乱により盛隆は居城黒川城を占拠されている。家臣たちの争いも絶えず、運悪く世継ぎの亀王丸も天然痘にかかり、わずか三歳で亡くなる。領内は佐竹から養子を迎えるべきか、伊達から迎えるべきかでひと悶着あり、佐竹から芦名家へ養子を迎える事で落ち着いた。
かくして、芦名最後の領主芦名義広が、佐竹から養子に入る形で会津を支配することとなった。しかし、伊達の圧力は日に日に増すばかりであった。
その頃、中央の天下は完全に豊臣家のものとなり始めていた。伊達への対抗策として家臣富田美作を京へ遣わし、石田三成を介して秀吉によしみを通じている。豊臣家へ臣従することで、この難局を乗り越えようとしたのであろう。
その富田美作と石田三成との間に交わされた手紙の文章の中に、信じられないような一文が出てくる。西会津松尾の梨の話である。
「御状依悦の至りに候、仰て去冬、金上殿御代官として差しだされ候処、殿下種御慈しみを加えられ候処、ご満足の旨もっともに候、かくの如き上は早そう義広御上洛、肝要に候 中略 三成」
三月十四日、富田美作守殿御返報には、
「追って松尾梨送り預け候是の段賞玩仕り候心事定めて、申し送るべく候段 早々」
この松尾の梨、江戸時代初期からの風俗帳や会津風土記などにも登場する。どんな味がしたのだろうか、興味は尽きない。歴代の殿様に献上されたこの梨の木、今でもありはしないかと西会津の真福寺へ行ってみたが、寺は無住となり梨の木はすでに無かった。
さて、謎は深まる。いったいどのようにして京表まで梨を運んだのか?わざわざ京の都まで献上物として運ぶほど価値のあるものだったのか。
古い時代の記録を見ていると様々な疑問に突き当たる。信じられないようなことも多く、時には頭を抱えてしまうこともある。
江戸時代の献立に「有の実」というのが登場する。梨のことである |