江戸時代の会津藩を訪れた幕府の役人や他藩の人々の目に、会津の城下や風俗がどのように映ったのかを記録に見るのは誠に興味深い。
十五年も前のことだが慶応大学の経済学部古文書室から、かなリ風変わりな内容の古文書のコピーを送っていただいたことがある。新潟県水原周辺の天領地へ米の出来高を見に来る役人たちのたちの旅日記であった。少し変わった内容で、毎日の宿泊先の本陣や休憩先の食事のことしか書かれてないのである。この日記はおそらく私的なものだったのであろう。
この古文書を参考にして東京女子栄養大学の教授や学生たちが、江戸時代の侍たちの栄養摂取状況とカロリー計算をして歴史関係の本に発表していた。その報告書によれば、どうしてこんな栄養摂取で一日数十キロにも及ぶ旅が可能なのか,という疑問が残されていた。ドイツから入った西洋医学のカロリー計算からは説明がつかないのであろう。
人間の命の営みは、人知の及びもつかない不思議さに満ちている。何か見えない大いなるものに生かされているのではないのだろうか。そのことを認めるか否かで、見える世界がまるで異なるような気がするのは私だけだろうか。とてつもない大いなる存在に生かされている。近頃そう思うようになった。
私は当時この本を読んですぐに慶応大学の速水融教授に連絡をとり、コピーを送っていただいた。それによると、安政三年(1865)九月、江戸を発った数人の幕臣は、目的地である越後の国・蒲原平野の天領地へ米の出来高を検見に向かった。一行は中仙道の高崎宿を経て三国峠を越え、越後の国・十日町に入り,信濃川を船で下り蒲原郡水原の本陣目指し旅をつづける。ここで一行は数日逗留し一通りの仕事を終えて,帰りは阿賀野川を街道沿いに遡り会津に入り、勢至堂、白河を経て十一月の末に江戸へ戻っている。
この間会津若松では、七日町にある脇本陣菊地家に宿泊している。本陣菊地家は新発田藩溝口家の定宿でもあり、会津来訪の幕府関係者などが多数投宿している。同じ頃、日本地図作成の為に全国を行脚した伊能忠孝も、この宿に逗留したことが記録に見える。
明和二年(1765)に普請された本陣はなかなか立派な建物であったらしく、食事の内容もとても良かったことが記されている。しかし、菊地家の投宿の部分だけ献立が余り明確でない。日記によればこの菊地家の印象が誠に良かったようで、屋敷の造作、掛け軸、宿の持て成しとあまりの事にいたく満足し、宿の子供に礼として大黒銀二枚(安政銀のことか?)を与えている。昨年もその前の年も同じようなもてなしを受けたと書いている。
現在は残念ながらその建物は残っておらず、子孫の方は同じ場所で漆器業を営んでおられる。
一連の献立の記録を見ていて新潟新発田藩、溝口家の対応や会津領に入ってからの藩の対応を比較すると誠におもしろい。天領地から新発田藩に入ると藩の役人がわざわざ応対に出迎え、翌日も国境まで見送りに来ている。新発田領では山内宿の夜の献立に、領主より酒肴三品の差し入れがあるが、見ただけで手もつけていない。ところが会津領になると、このような事が毎晩のように当たり前のように行われる。幕臣に対し会津藩は、特別な扱いをして気を使っていることが献立からも伺える。残念ながら記録からはその内容に関し
て、あまり正確には窺い知ることができない。江戸の役人を困惑させた会津藩の本陣の食事はどのようなものであったのか、興味は尽きることが無い。しかし私の中では、市内の旧家の婚礼献立や役人の接待記録から、おぼろげながら当時の料理の全体像が見え始めてきている。
また近年この七日町も時代の変化の中で取り残されて、数年前まで死んだような町になっていた。しかし心有る有志の活動により、今この町に再び住民たちの心に灯がともり、自らの努力で昔の活気が戻ろうとしている。全国的に街中の空洞化が進む時代に、まだまだではあるが人が戻り始めて来ており、全国から注目されていることに大きな拍手を送りたい。 |