記録に残された献立記録から、当時の食生活を判断するのはよくよく注意しなければならない。記録に残すということは特別なことなのだということを前提条件しなければ、大きく判断を誤る。特に庶民や農民下級武士たちの風俗は、まことに判りにくい。
明治二十九年、渋谷源蔵という人物が、会津の下級武士の生活をコミカルに描いた狂歌集を発刊している。これは当時の庶民の食生活を知る上で大変参考になった。
徒ノ町、現在の栄町、穴沢病院のあたりから、東手は御薬園の下、花春あたりまでの地区に居住していた足軽たちのことである。このあたりには江戸時代、切米扶持いずれも十石程度の下級武士たちの屋敷が軒を並べていた。
藁葺き屋根の間口が四間、奥行き七,八間位の門もなければ庭もなく、通りから台所が見えてしまうような家に住み、男はふだん勤めもないのが大半で、薄給ゆえに生活の足しに山仕事(芝刈り、炭焼き)や漁労、商家へのアルバイト、内職などをしながら細々とつつましい生活を営んでいた。この狂歌集には、貧しいながらも大らかな足軽たちの生活がユーモラスに表現され、読んでいて思わず吹き出してしまう。
「見渡せば、薪も炭もなかりけり、米びつなどは秋の夕暮れ」
というような調子である。
食生活に関するものも多く詠まれている。特に南瓜を詠んでいるものがとても多く、可笑しい。
「徒ノ町、土手の南瓜も実入りけり、松茸山に弥太(下級武士の俗称)もいくらん」
南瓜の煮物を重箱に詰めて友を呼び、慶山あたりの松茸山に物見遊山にでも行ったのであろう。薄給の身ゆえにおかずを用意することもままならず、わずかに南瓜を持って足れりとするとわびしさを、哀れなりと結んでいる。
「御東や御西の伯母さまお茶召し上がれ、今日は南瓜の初きりをせし」
「徒ノ町、土塀の南瓜の蔓たぐらん、隣のかかあも出でて引くらん」
植える土地もないので彼らは土手や空き地に南瓜を植え、特に婦女子はこの南瓜が育つのを無上の楽しみとしていた。収穫ともなれば、頼みもしないのに隣近所の女たちも手伝いに出てくる様はなんともおかしい。
「徒ノ町、南瓜茶請けに老婆たち、娘誉め誉め嫁のざんぞう」
今も昔も変わらない風景である。ばばあたちが軒先で秋の陽だまりの中、南瓜を茶請けに嫁の悪口を大きな声で語り合う姿が目に浮かぶ。
「祭文と南瓜がなければ、生きがいもないよと、弥太のかかあ述懐」
当時、辻の家の周りで祭文語りが徘徊し、庶民はそれを楽しみにしていたが、それ以上に南瓜を食べることは楽しみだったのであろう。
「徒ノ町、土塀南瓜の霜枯れて、赤椀伏せる時は来にけり」
冬にろくに炭も買えない彼らは、囲炉裏の中に赤い椀を伏せて炭に見立てたというのだが、本当だろうか?
「表から、勝手の見える徒ノ町、から雑炊に大根二切れ」
豆腐のおからの雑炊に沢庵漬けが二切れという、それが通りから見えてしまうという話である。
沢庵に関しても一句。
「徒ノ町、沢庵漬けの塩代の、目当ての柿は色づきにけり」
「揚げ卵、口に抱きたる帖付けの、勤めうらやむ弥太もありけり」
貧しい下級武士たちは、役人の下役として村々を回ることもあり、役目で回村の折、投宿先の家でご馳走にありつくこともあった。卵焼きを食べた話を同輩の仲間がさも自慢げにするのを、喉を鳴らして聞いている様が見えるようである。 |