会津坂下町の国道49号線、七折峠を抜けた辺りの沢の下に、泉と言う集落がある。ここに江戸時代、会津藩の御用簗場があったことは案外知られていない。
日本海から阿賀野川沿いに遡上してきた鮭、鱒、鮎の類を、この簗場で捕獲して塩漬けにし、藩へ献上していた。
縄文時代は日本列島の東北部の方が、西日本に比べ人口密度が高かったといわれているが、縄文人の食生活を底辺で支えていたのが鮭ではないかというのが、考古学の世界では定説である。鮭文化の世界はそれ以後も長い間続く。
会津藩が幕府への献上物を記した目録のなかにも塩鮭が見える。またそうした背景からか、江戸期の婚礼献立の中にも鮭の料理は数多く登場する。焼き物や鱠が多いのは、今の時代もそう変わりない。残念ながら会津の献立記録は、江戸時代の中ごろ以後のものが多く、中世やそれ以前のものとなるとほとんど皆無に近い。
南会津の山間部を散策していても、いつも鮭のことが頭をよぎっていた。金山町には鮭立という地名まで残っている。おそらくこれ以上鮭が登れない急流の淵からきた地名なのだろうが、それにしても、昔の人は鮭をどのようにして食べたのだろうか。
古来から会津の人たちが、川を遡上してきた鮭を利用していたことが解るのは、食事記録に、トフ鮭とかどぶ鮭とかいう標記があるからである。トフ鮭とは何のことかと魚市場に長い間勤めた人に聞いたら、真水に入った鮭のことであると教えてくれた。
鮭は真水に入ると味が落ちるといわれているが、当時の人々にはそれでもご馳走であったろう。
そういえば、会津の江戸期の献立に鮭のスシが登場してくる。現在、米沢の郷土料理として似たものが作られているが、米沢と同じように押し鮨のような物であったともいわれている。これらは、消えていった会津の料理の代表的なものであろう。
会津の代表的郷土料理であるこづゆにも、古い時代はイクラが入れられていたようだ。魚の子と書かれてあり、時代が下がると魚の子麩として豆麩がかわりに代用されるようになる。
また、よく登場する鮭と似た鱒についても述べておきたい。鱒が海から遡上するのは、桜の咲く頃から初夏にかけてであった。そのため桜鱒とか五月鱒などと呼ばれ珍重された。巡見使の訪れるのもこの頃で、賄い記録には鱒がたくさん登場する。蒲鉾や吸いもの、鱠などに使われていた。
数年前、用事があり飛騨高山を訪れた折、地元の日枝神社の祭礼にぶつかった。食事をした地元の料理店で、なんとも古典的な郷土料理を味わったことがあった。鱒の竹輪や鱒のすしなど様々な鱒料理に、会津の古い時代の料理を思い描かずにはいられなかった。
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