『徒之町百首俗解』のなかには、足軽たちが重箱に南瓜の煮物を詰め出掛けた紅葉狩りの狂歌が登場する。肴の買えない下級武士たちの物見遊山の様子であろう。
向日ミキという会津藩上級武士の娘の、明治になってからの回想録に、侍たちの秋の物見遊山の様子が描かれていて、誠に興味深い。
秋にはよく御留め山へきのこを採りに行き、鍋や味噌を持参して山で採った茸を煮て食べたようである。
御留め山とは慶山辺りの山の事で、山へ茸を採りに行ったり、今でいう芋煮を許されたのは、身分の高い武士達だけであったようだ。貴重な芋煮会の証言である。武士の家族が家人を引き連れて鍋持参で、飯盛山周辺に物見遊山に行く様子が目に浮かぶ。
会津では茸山というこの行事が、いつ頃からはじまったのかは残念ながら判然としない。山形の風物詩としてつとに有名になったが、似たような行事が東北各地で行われており、各地域で様々な味付けがされ、なかなか個性的である。少なくとも会津の武士たちの間では野外での芋煮パーティが年中行事として定着していたことが伺われる。
そもそも芋煮に使われる鉄鍋が一般に普及するのは、室町時代といわれている。禅僧が料理技術と共に日本に持ち帰ったともいわれていて、鍋は日本人の食生活を大きく変えた。それまでの日本の料理には「煮る」という調理法がなかったとさえいわれている。当然ながら鍋は大切にされた。
さてさて秋の名月の頃、鍋を目当ての鍋泥棒が横行するのも何だかわかるような気がする。
芋や大根、茸が出揃って、月に鴨や渡り鳥の影が映れば食欲も増そうというもの。薬味に葱があればいうことなしである。まさに芋名月とは言い得て妙である。
山形あたりでは、芋煮会のル−ツについていくつかの説がある。近江商人たちの酒田での紅花取引の慰労会がルーツであるとか、船頭たちの食事会がルーツであるとかいった様々な説があるが、向日女史の話にあるように、会津でも既に定着していた様子から、山形だけの特殊な年中行事ではないことがわかる。
これらは宗教的な面からの収穫祭のようなものが原点ではなかったかと思う。寺を中心に、無理なく自然な形で定着していったのではないのだろうか。
料理の解説にはこのようないささか無理な定義付けが伴う。そもそも郷土料理などという言葉さえ、おそらく太平洋戦争以後の産物であろうし、特定の料理に元祖を名乗るほど馬鹿馬鹿しいことはないと思っている。似たようなものはどこにでもあるだろうし、グロ−バルに見れば、むしろ親近感が増そうというものである。 |