江戸時代、東北地方は数回にわたり大凶作に見舞われる。
会津においても一旦凶作に見舞われると、平地の会津領よりも南会津、只見、金山地区のような天領地のほうが耕作地も少なく、被害も大きかったようだ。
天明三年(1783)の大凶作、いわゆる天明の大飢饉であるが、 藩庁記録の『家世実紀』にはこのときのありのままの事実が淡々と書かれ、それだけに恐ろしさがひしひしと伝わってくる。
この年は春から異常な低温が続いた。半夏になっても田の水は手を切るように冷たく、田植えもできなかった。その後も寒い日が続き、セミが鳴くこともなく土用を迎え、挙げ句の果てに真夏に雪が降った。秋になっても作物は実ることなく空しく枯れ果ててしまった。古代から中世、江戸時代と、会津は何度となくこのような大凶作に見舞われたのである。
この地の人々は、どのようにしていのちを引き繋いできたのかと、南会津の山間部を訪れるたびに、いつもそのことを考えてきた。
徳川幕府勘定所は、各天領地へ興味ある通達を出している。いわば、生き延びるためのサバイバル読本である。これは一月を経て南会津の天領地各組へ伝達された。
その中に「藁餅の仕方」というのがある。生藁を半日水に浸け、灰汁を出してよく砂を落し、穂を取り去って根元の方から細々に刻む。それを蒸して干し、軽く炒って臼で擦り、粉末にする。この藁粉一升に米の粉二合をよく混ぜて水でこね、餅のように蒸したり茹でたりして食べる、というものである。こんな知識がいきなり出てくるはずもなく、なにか出典があったことが窺える。
この大飢饉で、南会津地方だけでも二千四百三十二人の人々が亡くなっている。その死因の多くは、穀類から離れたための栄養不良で、体が膨れ上がり、視力が衰え、病気に対する抵抗力が失われたことによるものであった。伝染病が流行すると、ひとたまりもなかったのである。
私たちが現在食する山菜料理や蕎麦などには、このような悲惨な事実がつきまとっていることを忘れたくないものである。
この通達には、ほかにも生き延びるための様々なマニュアルが記されている。
そして五年後、『東遊雑記』を著わした古川古松軒ら幕府巡見使の一行が、南会津の天領地へ巡見に入る。疲弊した山村の人々は、大変な思いをしながら一行を迎えたのだった。しかし、農民たちの身を削ってのもてなしを、にべもなく不味い食事と決め付け、揶揄するかのごとき狂歌を残すにいたっては、あまりに酷薄である。さらに、世話をする地元の農民たちを土人と呼ぶあたりは、冷酷で非情な差別意識さえも垣間見える。
悲惨を極める暮らしの中から莫大な出費をしてもてなす側に比べ、『東遊雑記』はあくまでも物見遊山の紀行文に終始する。ひとかけらの感謝すら見えないのだ。
文責・奥会津書房
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