古い時代の食事記録を辿ると料理や食材に流行があり、時を経てまったく省みられなくなったものがあることに気付く。
幕末に会津で刊行された『会津の名産、名物、高名番付表』がある。市内の長門屋菓子屋さんが包装紙に復刻して使用している。それを注意深く見てみると、当時の会津の特産や様々なものが、ずいぶん今と様子を異にしていたことがわかる。人間の価値観の変化もわかり、興味深い。
その「五幅対」と言われる番付けのなかの名魚の覧第一に、湖水鮒ということが書かれている。猪苗代湖で捕れた鮒のことであるが、会津藩の様々な接待記録にも度々鮒が登場する。鱠や吸い物などの料理にもよく見られる。
近頃は日本人の食生活から遠ざかってしまった感があるが、縄文時代の貝塚などからは鮒の骨が数多く見つかっている。
近世まで、鮒は身近で手軽に採取できる貴重な蛋白源であったはずである。江戸期に書かれた料理書にも、「鮒料理は鱠(なます)をもって第一とする」と書かれてある。会津の献立にもやたらと鮒の鱠が登場する。
曲者なのはこの鱠といわれる料理で、古典料理を研究する人たちの間にも、その範囲や区分に関して決まった定説がない。現在の酢の物や刺身、和え物のようなものまで含まれるとも言われている。
十八年前、会津の記録に登場する鮒の鱠を、前出の菊池さんの証言を元に再現してみた。
再現してその美しさに感動した。江戸期には刺身に近い生盛鱠が考案され、会津では「ほおずき鱠」ともいわれていた。現在の刺身のように盛られた具の真中に、葉のついた榊の枝にほおずきを刺したものを添えるのが習わしであった。幕府の役人が会津に入る五月頃、当時の湖水の大鮒は腹に大きな卵を持ち、大変おいしい時期だったそうである。茹でて黄金色になった卵をぱらぱらにほぐし、乾煎りした後、削ぎ切りにした鮒の身にまぶして盛り付けた。
江戸以前の有職故実書、『伊勢之貞丈雑記』にもこの鮒の鱠が登場する。これを山吹鱠と呼び、山吹の花を一輪添えたと書かれている。会津(特に南会津)の各地から小笠原流の料理書が数多く出てくるが、ここでも鱠をとても重視していたことがよくわかる。
ただこのような料理書の類はひどく難解であり、わざと判り難くしていたきらいもある。口伝で伝えられる部分がとても多かったらしく、残念ながら今となっては私たちが覗けない部分も多い。
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