会津の里は数年前から蕎麦の大ブ〜ムである。
山都町から始まった蕎麦による町おこしは、今や会津全域を巻き込み大きな経済効果を生んでいる。数ある町興し村興しの中で、このような成功事例はあまり多くはない。山都町の宮古地などは、季節によっては交通渋滞が起きるほどである。」
今の時代、蕎麦は嗜好性が強く、美味しいとなれば何処へでも人々は押しかけるが、山深い農村の生まれの年配の人は、蕎麦など見たくもないという人もいる。そんな現代の人に、昔の上流階級の人々はあまり蕎麦を食べなかったといえば信じてもらえるだろうか。
市内の旧家の献立記録を見ると、後段と書かれた献立の最後の頃に蕎麦口上が登場する。独特の節回しで蕎麦を褒め称え、この口上が終わると宴席はお開きということになるのだが、実際に蕎麦が登場する事はあまりない。郡部の献立記録や賄い記録では蕎麦が供されているが、市内の場合それが素麺である事が多い。
長い間、雪深い南会津の山村の人々は、蕎麦を主食に近い位置付けで大切に食してきたに相違ない。一方、市内の城下の人々にしてみれば蕎麦は救荒食的な食物に過ぎなかったようであり、侍や裕福な町民は、蕎麦などはまともな人間の食うものではないというような認識しかなかったようである。
現在、仕事の傍ら奥会津三町村の小規模企業広域活性化事業のお手伝いをしているが、一連の活動の中で奥会津の食を取り上げるURL(インタ−ネットのホ−ペ−ジ)の製作を行ってきた。一月の雪の多いある日、HP上に掲載する奥会津郷土食の撮影に、カメラマンの佐久間さんと三島町へ向かった。会場には地元の方々の協力で様々な料理が用意されていたが、その中に気になる料理があった。蕎麦粉を使った「寒けえ餅」という料理である。
大ぶりのお椀の中に、緩い蕎麦がきのような物がお湯の中に浮いている。撮影を終えてこの寒けぇ餅を試食してみたが、その美味しさに感動した。つるっとした歯ざわりに、奥会津の人々はこんな風にして蕎麦を食べたのかと納得してしまった。昔は今のように麺にして食べるより、このようにして食べる事が多かったのではないのだろうか。
蕎麦を麺状にして食するようになったのはいつ頃からなのか定かでない。しかし、会津には室町時代の麺食の記録がある。これが会津の一番古い麺食の記録である。長禄三年、坂下町にある心清水八幡神社の異本長帖という記録に、参詣に訪れた会津高田の豪族に対し赤飯と素麺でもてなした、と書かれている。今から五百年も昔の話である。」
寒けえ餅を食べながら外の大雪を眺め、命の継承の壮大で気の遠くなるような長い人間の営みに思いをめぐらしていた。 |