村おこしのアドバイザーのような仕事をしていて、なかなか成功例が少ない事に気付く。理由は様々だが情報量の不足とそれに伴う戦略のまずさに原因があることがほとんどであり、山都の蕎麦による地域興しなどは数少ない成功例である。
金山町の豆腐による町興しも、そんな中での数少ない成功事例のひとつかもしれない。町全体でというレベルまではいかないとしても、注目を浴びていることに変わりはない。わたしも、豆腐と味噌は山の中にいくほどうまいと思っていた。水の良し悪しが大きく関係することは間違いないが、以前若松へ移転した折り、気に入った豆腐が無くてとても困ったことがある。
原因はよくわからないが、加工したときにどうも納得できる味にならない。白和えの衣にしたり、がんもどきに加工すると、とたんに苦味が出て気に入らない。
そんなある日、仕入先の酒屋さんが、こんな豆腐はどうでしょうと、南会津の南郷村の豆腐を持ってきたことがある。この豆腐を使ってみて「これだ、私の探していたのはこの味だ」と感激してしまった。それから七年近く、この豆腐屋さんが店を閉じるまでお世話になった。
会津に豆腐がいつ頃定着したかは定かでない。日本の一番古い記録に登場する豆腐は、寿永二年の春日大社の賄記録であるといわれている。京都の市中に普及するのが室町初期頃。寺院の精進料理や市民の食生活の中で更に磨きがかかり、やがて江戸時代天明期には『豆腐百珍』なる料理書まで登場する。会津の献立記録も江戸中期までがせいぜいで、料理としてのレパートリーの広さは感じられない。現在田島地区に残っている「つと豆腐」が若松城下の献立に多数登場する。昔は城下にあった料理も現在の市内にはなくなり、郡部のほうに今でも残っていることがある。豆腐料理はそのいい例であろう。
しかしながら、『徒ノ町百首俗解』という狂歌集には庶民の豆腐料理が登場する。この頃にはすでに市中にも日常食として定着していた様子がうかがえる。
「豆腐屋を、門に待たせて鳥小屋の、卵探す弥太もありけり」
足軽の豆腐を買う場面であろうが、金がないから物々交換というところであろうか?
「四方味噌、弥太にのみ、ぬたぐりつけたる、茶屋の田楽」
「湯の入りの、青木清水の旨味をば、弥太より他に知る人もなし」
東山の奥に山仕事に通う足軽の若者に惚れた、茶屋の娘の精一杯の大サービス。何ともほのぼのとしたいい狂歌ではないか。
会津の山間部にはまだまだ美味しい豆腐屋があるはずである。郡部へ行くと、私は決まったように豆腐屋を探す。 |