天明の飢饉から五十年後、天保四年(1833)。この年も大飢饉に見舞われる。被害は全国に及んだ。この年、春先は早々に雪が消えた。割合暖かかったといわれている。夏至はことなく過ぎたが、その後気候が一変。冷たい長雨が続いた。気温がどんどん下がり、日中でも単衣でしのぐことができず、朝夕、老人や子供は綿入れ半纏を着た。土用に入っても蝉が鳴くことはなく飢饉の到来を予感させた。
会津藩は、凶作であることがはっきりしてくると、藩庁はあわてて郡役所を通じ村村へ対策を講じるための公文書を次々と発する。
八月二十三日付けで次のような公文書を発行している。それは十倍粥の製法というもので、一日五人家族で米七合五勺、水七升五合で煮て食べろという内容のものである。力仕事をする者はこの他に雑穀を入れることを事こまやかに指示している。
この凶作は天保九年まで続いたともいわれ、同じ年、またあの幕府の諸国巡見使が訪れることになる。巡見使来訪の知らせは、人々の上に大きな負担としてのしかかることになった。
またこの年、南会津の天領地に平岡文次郎なる代官が着任する。江戸時代の南山天領最後の代官となる人物である。彼は天保十年の翌年、凶作に喘ぐ南山天領の農民の暮らしを見て、江戸表よりジャガイモを取り寄せ、農民に作付けを指導して大成功を収め、南会津の農民を飢餓から解放した。
ジャガイモはすでに江戸時代の寛政年間にヨーロッパから日本に伝わっていたが、今と異なりその普及に気の遠くなるような時間を要している。また彼は田んぼの畦に大豆を植えることを指導したり、様々な活躍をする。名代官として南山天領地の農民達の信望も厚く、退官するときは惜しまれながら南山領を去ったともいわれている。
ところで、ジャガイモのことをなぜかんぷら芋、と呼ぶのだろうか?福島県のあちこちでこう呼ばれているらしい。
昔私が幼かった頃、祖父が囲炉裏で灰の中へかんぷら芋を入れて焼いてくれた。皮の焦げた匂いと共に、あの味が脳裏に甦る。貧しかったけれど、囲炉裏の暖かさは不思議な空間を作り出していた。
母の実家は、戊辰のあと地元の農民も見向きもしない柳津町の荒れた高地へ開拓に入植した。農業だけでは食べていけず、教員や軍人になった人が多いともいわれている。
士族の生き残りのような人であった祖父は、黙って囲炉裏の火を見つめ、程よい頃に「ほらやけた」と私の方へかんぷら芋を放ってくれた。会津藩の生き残りの人たちは、高冷地の条件の悪い土地に開墾に入り、慣れない農作業に悪戦苦闘したと聞くが、それこそ生き延びるために、かんぷら芋にはどれほど助けられたことだったろう。
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