時代は天保の頃、能登の黒島村に角海孫佐右エ門と言う男が活躍する。番頭を根室、新潟、堺に常駐させて、持ち舟の大形北前船七隻に蝦夷地で海産物を買い付け、一部を新潟で卸した。替わりに会津や越後の米、豆類又物産を積んで堺港まで運び、大阪で商をしたようだ。
又、帰りの船荷には、砂糖、塩、日用雑貨、御影石、伊万里焼まで買い付けて、金沢や新潟などの日本海沿岸の都市で売りさばく「のこぎり商法」を行い財をなした。
この頃会津へは、川を利用したり、荷馬車や人の背に担われて、これらの品々が大量に持ち込まれた。
鰊の相場は会津と京都で決まるとまでいわれ、会津の町に大きな海産物問屋も出現し、会津から各地へ鰊をはじめとする海産物が売りさばかれたといわれている。
鰊売りの娘
弘化四十年十二月十六日の暮れも押し迫った頃、会津領の阿賀野川貝喰という難所で、越後からの商人四十四人を乗せた下り舟が転覆し多数の死傷者を出す事故が起きた。この時の溺死者のほとんどは、越後よりの鰊売りの娘たちであったといわれている。何れも五ヶ浜辺りの貧しい漁村の娘たちで、会津へ年取りのために使う鰊を売りにきた帰りにこの事故に遭っている。
会津藩の家政実記という記録にも、寛政二年頃から鰊売りの娘たちが城下にあらわれたと記録されている。赤い前垂れをした塩汲み姿で、桶二つに鰊を詰め、天秤棒にさげて「鰊いらしゃりませんかぇー」と唱えながら市中を売り歩いたという。なかなか色っぽかったらしく、文政年間に編纂された「徒ノ町百首俗歌」の中にも、下級武士と鰊売りの娘たちとの人間くさいドラマが狂歌として詠まれている。
肥料として利用された鰊粕
天明期の蝦夷地では、食用以外の農業用肥料として鰊粕の生産もさかんになる。
天明の諸国巡見使一行とともに、東北、蝦夷を訪れた古川古松軒の著わした「東遊雑記」に、この辺りに触れた記述がある。
「数の子は全国に出回り、魚肥としての干し鰊は昔は北国だけであった。いまは近江近在五磯内、両国筋まで田畑の養となす。干し鰊より理方よしという、関東いまだこの益あるをしらず」と書き残している。どうも関東方面には食料としても肥料としてもあまり出回らなかったようである。江戸前の新鮮な魚介類、千葉沖の大量に取れる鰯の漁獲とも相まって鰊は軽視される。
従って江戸時代に江戸市中で発刊された料理書には、鰊はほとんど登場しない。会津や京都周辺に似た食文化があるのも、このような視点から見ればうなずける。 |