菊池さんにお会いして早速、私たちは江戸期の献立を持ち込んで聞き取り調査を始めることになった。献立の書き出しは食器の呼び名で書かれているのが普通であり、その下に材料が書かれているのが一般的である。
その中に「重」と書かれているものがあり、どのような料理であるのかはっきりさせられずにいた。
「重」というのはどのような料理であるかを質問したところ、菊池さんから意外な事実を聞く事になったのである。
それはこづゆの事だという。 材料を見る限り何となくこづゆに似ているとは思っていたが確証がなかった。しかし疑問が残った。何故こづゆが「重」なのであろうか?重などと呼ばれる食器は重箱しか考えられないではないか。とすると古い時代、こづゆは重箱に入れられていたのであろうか?
昔は旧家に残る「大平」と呼ばれる器にこづゆが盛られ、宴席へ持ち出されたと言う。しかもお替りのできる料理として大変重宝がられたと言う話は聞いていたが、大平は重箱とはあきらかに異なる器である。現在では、大平にかつてこづゆが盛られたと言うことさえ忘れ去られようと言う時代である。
こづゆに関しては、郡山女子大の佐原昊先生と共同研究のような形で日本食文化財団の研究論文に応募し奨励賞をいただいた事がある。私などはお手伝いをしただけであり、ほとんどが佐原先生の手によるものだが、そのときの論文のなかでも「重箱に入れられた」とは断定しかねた。
菊池さんの話から、「重」が「こづゆ」であることはおそらく間違いないものと思われる。私たちはこのような仮説を立てみた。
江戸期も中ごろまでは、こづゆは汁気が少なく、味も濃い目で煮物に近いものだったのではあるまいか?時代が下がりだんだん汁が多くなり、必要に迫られて汁が漏れない丸物の漆器が必要になってきた。その頃から大平に盛られるようになったと考えられはしまいか。こづゆは、呼び方として「小重」が正しいのではあるまいか?
こづゆも時代によりかなりその材料が変化する。今のような形になったのはどう見ても明治の終わりごろのようである。それ以前は材料もばらばらで、季節により内容もかなり異なる。残り物の材料を利用している節さえみえる。現代のような定型が無いのである、これはどういうことなのだろうかと首を傾げてしまった。
またこづゆが会津独自のものと思っていたらこれもとんでもない事であった。調査を開始したら、似た料理は全国津々浦々各地にあるではないか。
会津の周辺の新潟や山形でも、内容はかなり変化するが各地に存在する。呼び名も異なるが、どうもルーツが有りそうだ思うようになっていた。
考えられるのは仏教である。これも仮説の域を出ないが、そもそも煮るという料理技術が日本へ入ってきたのは鎌倉時代とも言われており、禅宗の伝来と共に日本に伝わったとも言われている。禅の食作法が武家社会に大きな影響を与えた形跡が、小笠原流の伝書にも垣間見える。
禅宗の全国への伝播とその役割を担った、名も無き修行僧にも注目したい。 |