かつて紹介した「えご」の料理は、三島町の只見川上流早戸地区あたりから奥ではみられなくなる。また、精進料理もこの地域を境に異なってくる。膳の配置はだいたい図のごとくであるが、かなり古い時代の匂いがする。
この地方の旧家から発見された江戸時代料理書の膳の配置や内容がだいたいこのようなものであり、現在に至るまでほとんど変化していない。
古い時代の野沢地区や会津盆地の精進料理もこのようなものであったのだと思う。
ここで注目したいのは「筍羹(しゅんかん)」という料理である。筍羹とは、江戸期に中国から伝来した黄檗(おうばく)宗という禅宗の普茶料理の一種で、筍(たけのこ)一種を必ず使用した口取系の料理の呼び名である。
普茶料理というのは、中国系統の精進料理をいう。図には筍は出ていないが、筍を使うというのは筍羹のもっとも古い形である。図は一つのバリエーションであろう。 ひとつ疑問なのが、普茶料理の一種が、なぜこの地方にあるのかということである。金山町の人々は、婚礼の膳にもこの筍羹盛をつけている。
筍羹盛は、江戸料理にいう口取り、引き肴(さかな)の意味を持っている。
江戸の有名な料理屋「八百善」の八百屋善四郎が、普茶料理について『料理通』という本の中で紹介したのは文政期である。しかし、他の料理人たちが書いた料理書や、料理作法の『小笠原献方』などには、筍羹のことは出ていない。とすると、いったいいつ、どのように、金山町の本膳形式の中に組み込まれていったのだろうか。
先年、故金山町松前寺のご住職から、
「江戸寛政期の頃、京へ医学の勉強に行った”渡部げんこう”という名の村医師がいて、京の公家と交流があったらしく、帰村してからは料理や礼式のことなどを村の人へ伝えた」
という話しを伺った。”げんこう”とはどういう字を書くのかは分からない。筍羹もあるいはこの人物が京から持ち帰った料理なのかもしれない。
精進料理は村方では変化が少なく、古い時代の料理を知る上で大変参考になる。 |