天明8年(1787年)、徳川幕府の将軍交代に伴うときに、新将軍の施政方針を作る調査の為に全国に将軍の名代として巡見使を幕府は派遣した。この巡見使に今で言うルポライターのような人物が同行する。古川古松軒はその道中の記録を「東遊雑記」という記録に書き残している。その著のなかで私達が注目するのは、会津の城下の様子や、巡見する街道沿いの村々の生活の様子を克明に書き残していることである。
当時の江戸の役人たちに地方がどのように見えたのかを知る事が出来て興味深い。一方で、その役人たちを迎える側の記録も会津にはたくさん残っている。両方を見比べることは、双方の心の状態まで分かりなかなか面白い。
当時の会津は天明の大飢饉の後で、その後遺症から立ち直っていなかった。長年にわたる公儀御用のさまざまな出費に、経済的には破産状態に近い状態であったともいえる。先年家老に返り咲いた田中玄宰が、政治・経済・軍事の大改革の建議を藩主に堤出している。この家老による起死回生の、奇跡ともいわれた天明の大改革が緒についたばかりのころである。いわば、どん底の時の会津の記録と見ていい。したがって会津の城下や農村の印象は、あまり良い印彰とはいえなかった。
特に食事に対して一行は宿泊先の本陣や宿の食事のひどさに閉口している。会津ばかりでなく、味噌の不味さ、不味い酒、毎日同じような献立にあきあきしたと狂歌さえ残している。
一方巡見使を迎える側からすれば、迷惑この上ない話しであったことが読み取れる。今でいう皇族が来寇するような騒ぎであると思って間違いない。巡見使は時代により人数も異なるが、百数十名の団体が小さな集落に宿泊することもあった。
したがって一行の為の道普請や橋の架け替え、供応の為の膳腕の手配、食材の調達などは藩庁ばかりか農民たちの上に重くのしかかってきた。将軍の名代であるから気をつかうのも半端ではなかった。巡見使を案内する郷頭、藩庁の役人は質疑応答の練習までしており、自分たちの所に来たときに粗相が無いようにと、他藩にまで事前視察にわざわざ出かけたりもしている。また、面倒な事が起きないように犬は遠ざけるように、みだりに女性を目に触れる所に置くなと藩庁側の事前指導も事細かに指示されている。
この後の巡見使(天保年間)を最後に、諸国巡見使は諸大名からの反対もあり中止せざるを得なくなる。幕府の威光もその頃になると急速に弱まってくる。村の人口が半分以下になるような飢饉のわずか数年後に、この巡遣使をどのような思いで迎えたかを思うと悲しくなる。 |