会津に春彼岸が訪れる頃、城下には彼岸獅子の笛や太鼓の音が響き渡り会津に春の訪れを告げる。彼岸獅子の頭飾りの鳥の羽は、会津固有種の鶏の尾羽であるという事を知っている人は少ない。
会津に何時からどのようにして鶏が飼われていたのかは定かでないが、相当古くから飼われていたのではないかと思われる。鶏に関しても記録に登場するのは残念ながら江戸時代を待たねばならない。
鶏は南方の原産であるともいわれ、毎朝時を告げるので長い間日本人は食べようとはしなかった。アジアでも日本でも愛玩用に飼ったり,呪術的に利用したり、闘鶏をさせたりして飼う事はあっても、宗教的因習からかあまり食することがなかったのではないかと言われている。会津においても卵を料理した記録はあるが、少なくとも明治以前には献立に鶏の記録を見事がない。おそらく食する事にある種の因習的な忌避意識が働いていたに相違ない。
「日本霊異記」の中でも、卵や鶏を食するものは地獄に落ちる、と脅している。
日本人がおおっぴらに卵を食するようになったのは、南蛮人の到来以降である。彼らの食習慣が日本人に影響を与えたことは想像に難くない。江戸時代、日本人は呪縛から説かれたかのように爆発的に卵を食するようになる。当時の会津の献立に婚礼の席で田夫という大皿盛りの中に卵焼きが登場する、揚げ卵と書いてある場合が多いが卵焼きの事である。諸説色々あるが卵焼きは南蛮料理の代表的なものである。又会津の古い献立にカステラ卵と言う料理が出てくる。
2年程前に金山町の旧家から料理書が見つかりその中にカステラ卵の製法が記されていたのである。早速分量をそのままに再現してみたら、上品な味の豆腐と卵の蒸し寄せ物が出来上がった。
婚礼のご祝儀帖の記録にも卵10個とか20個とか言う記録も見え、相当高価な品物だった事が伺われる。江戸時代ついには『卵百珍』なる料理書の登場にいたる。
徒之町百首俗歌にも「揚げ卵、口に飽きたる帖付けの、話羨む弥太もありけり」と詠まれている。上司に就いて調査の為に村々を訪問する足軽の下役人が宿泊先の肝煎宅や本陣で卵焼きにありついた心情をありのままに詠んだものだ。
昭和40年ごろから最近まで、子供の人気料理のNO.1は卵焼きであった。 |