昔の本膳形式を知っている人がいるらしいという話が、昭和60年代の終わりごろ古文書の調査をはじめた私たちの耳に入ってきた。東京女子栄養大学の島崎とみ子教授に早速連絡を取り、日程を調整して同行して頂くことにした。
市内大町に当時お住まいの83歳になる菊池キノエ(故人)と言う女性であった。話の顛末はこうである。
菊池さんのご主人は、草創期日本海運の外国航路の料理人をしていたが、諸般の事情で郷里会津へ帰郷することになりキノエさんと結婚。会津で料理人として生計を営むことになった。しかし、伝統に縛られているこの世界で、江戸時代以来の本膳形式を知らないでは商売にならなかった。そこで、当時市内で高名なる料理人、神田某のところに入門することとなる。この人物が会津若松城の台所の流れを汲む人物だったというのである。
当時、料理人の社会的地位は現在とは比較にならないほど高かったと言われている。三つ組み杯のこと、結びのこと、婚礼の式次第に至るまで全てを取り仕切っていた。物事があると、料理人は故実に詳しく礼式の形を伝える者として尊敬もされ、信望も厚かったのである。
江戸時代、三百諸侯は藩を代表して幕府のお台所に見習を派遣している。江戸幕府の台所を取り仕切っていたのが四条園部流という流派であるが、考えてみれば幕末までこのような事が繰り返されたわけであるから、この流派の日本の食文化に与えた影響は計り知れない。しかし会津藩のどの記録にも、四条園部流が登場することはない。小笠原流の料理書,献方書は数多く出てくるのであるが、四条園部流との関係は不明なままである。「家政実記」も克明に見ているのだが、無い。
明治になると、婚礼や葬式を武家風にしたり、料理や式次第も侍の格式の真似事をするのが流行り病のように広がってくる。、こうした状況下で、神田某なる人物は礼式も含めた料理人として大変な尊敬を集めていたようである。またこの時代、料理屋は未発達で婚礼や葬式等の会食も自宅で行うのが当たり前であった。
菊池さんのご主人はやがて独立して料理人を始めたが、献立に日本海運時代の船内食で培った洋食なども取り入れたことが評判を呼び、大変繁盛したとの事である。この頃は磐越西線も開通し、海産物を始めとして多くの食材が以前とは比較にならないほど流入し、会津の近代化が急速に進んだ時代でもある。
会津の近代化は、一方では江戸時代以来の礼式、献方、料理技術等の文化崩壊の始まりでもあった。この時代の献立からも、すでに供応形式が大きく変化してゆくのが見える。
しかし私たちにとっては幸運な事に、菊池さんに出会わなければ料理の調査研究は最初の時点から躓き、前へ進めなかった事であったろう。
菊地さんの証言から、私たちは多くの事を知る事ができた。
次回から菊地さんの証言で明らかになった事を書いてみたい。 |