若い頃からあちこちの博物館で、漆器の器を料理をする立場で興味を持って見ていた。この器にはいったいどんな料理が盛られたのであろうか、どんな人たちが使用したのだろであろうかなどと想像を掻き立てられ、いつも胸をときめかして見入っていた。特に文化文政期に多く作られた会津絵の美しさには感動すら覚え、何故このような伝統が受け継がれなかったのだろうかと不思議で仕方がなかった。
そのうちに色々な道具の中にはいったい何に利用したのかと疑問に思うものも数多く出て来ていた。どうしても利用法が判らなくて、研究者や漆器の歴史に詳しい人たちを訪ね歩いた時期がある。
様々な人を訪ねてみて愕然とした。その器がいつ頃作られたとか、どんな系統のものか、どのような技術で作られたか、どこで作られたかには一様に詳しく関心もあるのであるが、どのように使われたとか、何が盛られたとか、どのような意味があるかということになるとまるで素人のように判らない人がほとんどであり、時には逆に質問されたりしてしまうことも多かった。
供応形式は時代と共に変化してゆくが、その変化に応えるように器や道具も変化してゆく。一度変化すると省みられなくなる道具や器も出て来る。その代表的なもののひとつに、旧家に数多く残る有田焼や瀬戸焼の大皿がある。今となっては何に使われたのかさえ判然としない。
これらの器が会津のような山間地に大量に入り始めるのは、北前船の運航が活発になった寛政期ごろからであると言われている。蝦夷地や東北の産物を上方に運び、帰り荷で九州の有田焼の大皿や他の西回り物が城下にも入り始めた。同時にこれを利用した生活スタイルや供応形式も共に伝わることになる。いまでも四国や九州の西国でさわち料理とか大皿料理とかいわれる、床の間の部屋の真ん中に、縦に大きな器や皿に料理が盛られ並べられる形式である。
この時期、器の移入と共にこのような供応形式が会津にも流行した。当時大棚の商人たちはこの高価な食器を競うように買い求めた。それらを婚礼の席で客人に披露することもご馳走のうちであったともいわれている。
この大皿を何故か田夫皿とよんだ。どう調べても出典が解らないのであるが、献立にもそう書かれている。そしてこの皿を載せる台を田夫台とも呼んでいる。この呼び方は会津独特らしく、他の地区の献立には見られないし、数多い資料や出版物にも出てこない。
こんな事も、今となっては関係者でさえ解らなくなってしまっているのである。大皿が入った時期に供応形式も大きく変化したことだけは間違いない。しかし明治も末期になると、今度はめいめいの鉢や皿が普及し始め、次第に宴席から大皿が姿を消してゆく。
私が見聞きした器、道具の中には、その使われ方に確証が持てないでいるものもかなり多い。また、それを解説した資料も皆無なのである。
|