会津若松市内の旧家の仏事献立記録には、本膳形式の料理の中に菓子が盛られている事が多い。この傾向は江戸時代からすでに始まっており、引き肴の部分に”饅頭七つづつ”とか、”けんぴ(もち菓子の一種)五つ”とか書かれている。種類も多かったが、すでに無くなってしまった菓子も多い。
ところが、日清戦争以後は台湾から多量に砂糖が入ってきて砂糖の値段が下がったせいであろうか、本膳の料理が飯、汁、香の物を除いてほとんど菓子に変わってくる。
練り切りというアンコに着色したものを、筍や人参の形にして平椀やつぼの中に盛っていた。当時、甘味はごちそうであったから、上流家庭ほどそうした傾向が強く、汁の味まで甘い場合すらあった。
太平洋戦争もそうだったが、戦争は食文化の面に大きな影響を与える。
また、大正も末期になると、市内の仏事は賄い事を精進料理で行うのが崩れ始める。それに比して郡部では現在でも精進料理で行っているところがある。前出の菊地さんの話などから察すると、賄い事に魚が登場してくるのはこの時代である。
市内の旧家には”堤げ重”という実に立派な漆の器がある。幾重にも重ねた重箱を手で提げられるようにしたもので、引き出しもついており、徳利や盃もおけるようになっている。元来は、大名やお姫様が花見や野遊びをするときにご馳走を詰めて使用したものだが、これが商家にも広まっていった。
提げ重は仏事にも重要な役割を果たした。空の提げ重に当主の名を記した紙片を添え、仏前に供えるのである。大きな商家になると、白い布を張った棚の上に親類縁者のきらびやかな提げ重がズラリと並んだという。当時の商人たちは蒔絵などを施した華麗な提げ重を競い合うようにして作った。
仏前に提げ重を供えるという風習は会津独特のものである。なぜそのような風習が生まれたかは分かっていない。 |