古い時代の献立を見ていると驚くような料理に出くわすことがあり、本当なのかどうか判断に迷うこともある。十五年程前会津の古い時代の献立の本格的調査が始まった。全体を解明してゆく上で、何度も火災に遭った城下には献立の書いてあるような記録が極めて少なく調査は困難を極めた。そんなある日、材木町の此花酒造河野家に江戸時代の献立記録が有ることを聞きつけて、お訪ねして驚いた。ガラスの展示ケ−スのなかに多くの江戸期の婚礼及び仏事の賄い帖が眠っていたのである。体が出会えた感激で震えるような興奮を覚えた。それからの研究に、この多くの献立資料が当事の上流社会(商家)や上級武士たちの婚礼の様子や仏事の在り方を知る上で、また料理を考える上で大変参考になることになる。それにしても内容の豪華さを見ると藩がたびたび発令した倹約令などは、この人たちには余り意味を持たない物の様であったようである。
驚くことに献立の中に鶴が登場してきた。真鶴とあり茶碗のものと言う。今で言う卵の入らない茶碗蒸のような料理使われていた。江戸期に発刊された、食物百科事典、本朝食鑑のよると鶴は香りがよく、匂いが逃げないように提供することが必定とされた。とすれば蒸し物は最高である。真意のほどは別としてどうも会津にも種類は定かではないがつるが飛来したようであり、限られた人たちではあるが食膳に供されることもあったようである。
会津藩の幕府への献上物の中に確かに鶴が見える。正月元旦将軍家に鶴を献上するのが慣わしであったことが家世実記という會津藩の記録にもある。下し参ると、脚はかんざしの材料に、羽は弓矢の矢羽に、肉は黒焼きにして血の道(婦人病)の薬として使用された。
こんなことが許された河野家とはいったいどんな家柄であったのであろうか?しかし、当事の社会的背景のなかでこの家は會津にとって重大な役割を担っていたことがその後の調査で判明してくる。文化三年の年の春、河野家は会津きっての商人林家からゆきと言う美しい名前の嫁を迎える。問題はゆきの実家、林家である。これより少し前。凶作に喘ぐ天明の頃、会津藩は打ち続く天災と長い間の公儀御用などによる出費のため、藩の財政は破綻状態に追い込まれる。
そんな中、天明元年、會津藩中興の祖といわれている田中玄宰が家老に就任する。同く天明七年の年、田中は會津藩再興のための藩改革の建議を藩主に提出している。後の世に言う天明の大改革である。
しかし、様々な改革をするにも、産業を興し、藩財政を建て直すにしても莫大な資金を必要とした。會津藩はこの資金調達の相手に大阪の大商人鴻池家を選ぶ。しかしながら藩の借り入れは困難を極めた。具体的交渉にあたるのはこのゆきの父、林和右衛門を始めとする商人たちであった。河野家の先祖も林家と共に並々ならぬ活躍をしている。残されている林和右衛門の書いた上方日記が、其の辺りの事情を克明に書き残している。
しかしこの事実を家世実記は一言も触れていない。もしかしたら鶴はそれらの功績に対する藩主からのご褒美だったのかも知れないなどと、いろいろ想像してみたくなる。会津には鶴の地名もいくつかある。新鶴村鶴之辺や鶴沼川いずれも昔は鶴の好みそうな湿地帯だったところのようである。
鶴や白鳥に対する狩猟の規制も厳しく、五人組帖のなかにも御止め鳥として其の捕獲を禁止している。それにしても鶴どんな味がしたのであろう。 |