会津と身欠きニシンの食文化
会津を代表する郷土料理として、現在も鰊は重要な位置を占める。鰊の山椒漬、鰊と山菜の煮物、鰊味噌、鰊の鮓漬など様々な料理として利用されている。海から遠く、冬には外の世界から雪に閉ざされる会津の人々に、鰊は大切な蛋白源であった。私達も小さい時から、御祭りや、何か物事が有るとよく鰊のご馳走を口にした。鰊のある生活が当たり前のように思っていたものである。
鰊は食料としての蛋白源としてばかりで無く、脂を取ったり、数の子を取ったあとの質の良くない鰊粕は肥料として田畑に利用された。江戸時代から日本海側の港町を起点とした鰊肥料農業の文化圏があった事が知られている。
関東平野を中心とした地域では、千葉の九十九里浜周辺で取れた鰊粕を田畑の肥料としている。ではこの鰊の干物はいつ頃から会津へ入ってきたのだろうか?
北前船の運航と鰊の関係
今までまことしやかにも不思議な説が、鰊と会津との関係には付きまとっていた。
幕末に、会津藩が幕府より京都守護職を仰せつかり、多くの藩兵が文久年間に京都へ着陣しているが、鰊を利用する食文化はそのときに京都の食文化の影響を受けたというのであるが、いささか無理がある。後の蛤御門の変や鳥羽伏見の戦いなどの大動乱を考えると、そんな余裕があったとはとても思えない。
また、文政年間に会津藩が北海道に北辺警備のために出陣していた時の影響を主張する人も多い。しかし、会津本郷で焼かれた本郷焼きの鯨鉢に文政二年の書付のある鯨鉢もあり、すでに市中にこの鉢が大量に出回っていることをみると、この説も正しいとは思えない。
文政年間にはすでに鰊の山椒漬が料理として普及定着していた事がわかる。
蝦夷〔北海道〕地の開発との関連
江戸時代以前、蝦夷地の海産物や特産品を東北地方へ持ち込んだのは、アイヌだと言われている。交易といっても物物交換的な性格が強く、米一俵と干し鮭百本というのが交換の基準であったらしい。しかしアイヌが他の海産物や物産をいくら持ち込んだといっても、当時の運送手段から見ればたかが知れていたであろうし、一般の人々の食生活や食文化にまで影響を及ぼしたとは考えにくい。
農民にまで行き渡るほどの量を考えるには、近江商人と北前船のことを念頭におかねばなるまい。近江商人は、関ヶ原の戦いの折り東軍徳川方へ鉄砲三千挺を寄進し、勝利に大いに貢献したとして、その見返りに商業活動上の多くの特権を手に入れる。その特権のおかげで日本全国どこでも自由に商業活動を展開した。当時未開の地であり豊富な資源に恵まれた蝦夷地は大きなビジネスチャンスを秘めており、彼らにとっては魅惑の土地であったろう。やがて、松前藩から場所請負人として開発の様々な特権を得た彼らは、豊富な蝦夷地の物産を北前船で大量に本土へ持ち込む。「松前組中算用帳」といわれる近江商人の残した記録によれば、享保二年の年、五千俵の鰊が本土に持ち込まれたという。
鰊やほかの松前物が会津の市中に出回ったのは、おそらくこの前後とみて間違い無い。 |