天明の巡見使から五十年後の天保九年(一八三八年)、再び会津を巡見使が訪れる。このころの会津藩は飢きんから立ち直り、経済的にもかなり復興した時期だった。
先年、私たちはこの巡見使を接待したT城下御宿屋敷Uの料理を復元したことがあったが、会津藩もかなり気を使っている様子がよく見えた。グルメだった幕臣が口を極めて称賛するくらいだから、かなり質の高いものであった。料理は江戸風のものもあったが、京風のものも多かった。カステラ玉子という料理(卵を泡立てたものに白身魚のすり身を加え、焼いたもの)などは、南蛮料理のにおいすらする。
ところで、興味があるのはこういった料理を作った料理人たちのことである。巡見使の接待料理を作ったのは町方の料理人ではない。城中の台所に詰める下級武士であった。
会津も他諸侯も礼式や食作法などは幕府と同じことをしなければ、いろいろとまずいことが多かったと思う。当然、幕府の台所へは各諸侯の台所から見習が入る。
徳川幕府の台所大膳(ぜん)部は四条園部流といわれる料理道の流派が活躍していた。それは幕末まで続き、明治に至って、この四条園部流は宮内庁に召し出される。この四条園部流の家元である石井家の古文書の中に、三百諸侯の台所から見習に入った者の名簿があることが分かっている。当然、会津藩からも多数の者が入門していたことは間違いないことであろう。会津藩の料理は、こういったところからの影響が強いのではないだろうか。
会津の料理が、いろいろな面で京に似ていることから、今までは松平容保が京都守護職の時代に京から持ち帰ったものだ、などと言われてきたが、ちょっと無理がある。
京からの影響ももちろん長い時を経てあっただろうが、江戸から帰った料理人たちにとっては淡水魚や干物といった料理素材が身近なものであったことから京料理に似てきた、と見た方が正しいのかもしれない。会津も京都も海から遠い。似てくるのは当たり前のことだと思う。
その外に、いろいろな要素が複雑にからみ合い、長い時間を経て会津の料理を形づくっていったと思われる。 |