会津の江戸期の食事記録を見ていて不思議なことに気付いた。
淡水魚の代表であるはずの鯉が、殆ど登場しないのである。いったいどういうことなのか?
会津の料理には鯉の洗いや鯉の甘煮が決まり事のように出てくるものと決めて掛かったら、肩透かしをくわされてしまった。
鯉が諸藩の養殖によって日常の魚にまで広まったのは、江戸時代の文化頃といわれてる。寛文九年に書かれた『料理食道記』によれば、信濃、出雲、紀伊など、全国の養殖の盛んな産地が上げられている。鯉は中国では魚の王とされ、竜門に昇れば化して龍と成す、という伝説から出世魚として尊ばれた。
また室町時代に完成された四上流、大草流などの包丁諸流では、将軍家にご覧に入れる御前包丁は鯉に限られていた。私も若い頃この式包丁をならい、伊佐須美神社の神前で奉納の鯉料理を何度も行う機会があったが、鯉の切り方の多いのには驚かされた。百種以上の切り方があるともいわれている。
ところが会津において鯉が食事記録に見えるのは明治以後、それもかなり裕福な家の婚礼などである。鮒、川才(にごい)、川鱒、河鹿、ハヤ、ウグイなどは比較的多く見られるが、鯉は殆どといっていいほど登場しない。定かなことは言えないが、天明の大改革のとき、殖産興業策として、藩の指導のもと鯉の養殖を始めたともいわれてはいる。が、確証が無い。鯉の甘煮などの料理も、砂糖が比較的手に入りやすくなった明治期に人気が出て流行した様子がうかがえる。しかも、料理や献立をいろいろ見ていると、時代により食べ物にも流行があることに気付く。
天明八年、幕府巡見使に同行して会津に入った学者、古川古松軒は会津の魚についてこう書いている。
「このあたりは、米自由なれど、魚(海魚)なく三拾四里西の方の越後から塩魚送りくるといえども、値高くして下民の口に入りがたし、会津君とても御在国のとき、生魚を食したることはまれなるよし」
それから五十数年後、天保九年の年、また巡見使が会津に入り、天保十四年には諸国金山奉行が全国の金鉱山や各種の鉱山視察のために会津に入っている。時代が新しいせいもあり、数多くの賄い記録、饗応記録が残されているが、こんなところにも鯉の料理は登場しない。その理由がよくわからない。
会津藩では、何らかの理由で罪を問われ、切腹を命ぜられた武士のお膳は、前日に鯉の料理が出されたといわれ、しかも膳の置き方は木目が縦になっていたともいわれている。そんなこともあっての事なのか、記録には鯉がなかなか見あたらない。このような事実は、想像で物事を判断することがいかに危険かを教えてくれる。
そういえば、鰊や棒鱈のような料理も、不思議なくらいあまり出てこない |